2018/12/25

Dreaming

へろーへろー、まもすんだよー。


結局1年開いちゃいました。
なかなか書けなくて、イライラもするんだけど、
仕上がらない記事をポストするのも変だから、しょがないよねと自分を慰めつつ、
1年が終わる前に、ポストできる記事が書けて良かったよー。


先日、子供が産まれました。
それで、まだまだ慣れないながら、彼(男の子)に触れています。

彼が夢を見ているように見える

彼の人生はまだほんの数日。胎内にいたときも含めたら1年に満たない程度。
それで彼が何を夢に見ているのかはわからないけれど、
苦しそうだったり、楽しそうだったり
はあはあ、あうあう、と何かを口に出している。
忙しく眼球が動く。
あたしはそれを見たとき、この子に何を見るものがあるんだろう?(なにもないでしょ)
って思ったのだけど、そのあとに育児関係の記事を読んでいると、赤ん坊はその日にあったことを夢に見ている、って書かれていて、衝撃を受けた。

あたしのしょーもない基準では、とてつもなく短い、数日という人生でも、それは人生であり、彼にとっては振り返るべき体験なのだと、気が付かされた。

ただ、食っちゃね食っちゃねしてるわけではないのだ、と。



(ここからセカンドライフの話)

人はその体験を振り返る。

セカンドライフ、「第二の人生」をプレイし始めてもうすぐ11年が過ぎようとしています。

このゲームは、ゲームというにはあまりにも生々しい瞬間があって、胃がひっくり返るようなえぐい体験もした。けれど(「も」というからには)、その反対に、心優しい、たぶんリアルでは体験できないような、ある種スピリチュアルなと言い換えてもいい、ハートを揺さぶる出会いや、体験をした。
(ちょっと話ずれるけどSLのお友達ってのは、なにかこう、リアルの情報をあんまり知らないからなのか、リアルの友達とは何か違うけど、どこか深い。そういう友達になれる気がする。誰とでもってわけではないけど)

あたしはそのことをなぜかプレイ初期から知っていた。それがなせなのかはわからないし、そこを探求する気はない。ここには何かがあって、それに参加するなら、何かを負って、追っていくしかないのだと。
「たかがゲームに重いんだよ」と自分でも思うけど、しょうがないのだ、何かを負ってしまったのだから、何かを追いかけているんだから。

そのいまだ知らないけれど、なぜかわかっている未来を追体験するために、負ったものを返しながらセカンドライフをプレイしている。それは未来の経験だからあたしを裏切ることはない(ような気がする)。

目をつぶりそこに夢を見れば、世界中のいまだ知られざる、未来の経験を共有する仲間たちの"マトリックス"に、あたしはつながることができる。

負うならば選択肢を
追うならば自らの答えを
できる限りこの世界に提供していきたい。

それが、はじめから、これまでも、そしてこれからも
あたしがなすべき、すでにした未来の経験なんじゃないかと
今は思っています。

2018年もお世話になりました。
2019年もお世話になりたいと思っております。
また来年もセカンドライフでお会いいたしましょう!

そいじゃまたー!
バイビー2018年!!

-まんもす☆にし